ウズベキスタンの西部ホラズム州に位置する古代都市の1つであるヒヴァ。
ヒヴァには1990年に中央アジアで最初にユネスコの世界遺産に登録された「イチャン・カラ」があります。
ここでは、その「イチャン・カラ」の4つの主要なダルヴァザ(門)をご紹介します。
イチャン・カラは東から西へ450m、北から南へ600mあります。
領土全体で26ヘクタール。
イチャン・カラには四方にダルヴァザ(門)があり、現在でもイチャン・カラ内に約200件の家屋があり、約3000人の人々が住んでいます。
★オタ・ダルヴァザ(西門) Ота Дарвоза
ヒヴァ「イチャン・カラ」の主要な中心となる門になります。
1920年の革命後の混乱で壊されましたが、1967年ヒヴァの街全体が「博物館都市」に指定され、観光客が来はじめたため、1975年に修復されています。
扉の上方部には85cm四方の中に円が描かれ、円の中には2つの八角形が形作られています。この模様の中にはアラビア語でクローンの言葉や歴史的な日時が記載されています。
現在のこの扉はムハンマド・アミーンハーンがアンガリクに建てた宮殿に使用されていた扉が置かれています。
このことについては、ウズベキスタンで最初の写真家フドーイ・ベルガン・デボノーフが撮影した写真から明らかとなっています。
オタ・ダルヴァザは煉瓦で作られており、長さは10m、幅は4mあり、4つの部屋から構成されています。
その部屋では、金銭が管理されたり、税関室や警備室として使われていました。
★パルヴァン・ダルヴァザ(東門)Полвон Дарвоза
3000年の歴史を持つ最も古いダルヴァザになります。
当時、このダルヴァザが街の主要な入り口の扉となり、ここには1人の警官長と7人の騎士が配置されていました。
イチャン・カラの城壁の周囲にはアム川からの水で囲まれた水路があり、ダルヴァザの前には夜には持ち上げられ、渡れないようにするための橋がありました。
ダルヴァザの長さは52m、幅は7mあり、6つのドーム型の天井から構成されています。
両側に8つずつ部屋があります。この部屋や通路は警備室や市場として使われていました。
このダルヴァザは何度も修復されており、土台のみが当時のものとなっています。
約3世紀にわたって、ヒヴァは中央アジアで一番の奴隷市場がある町として知られていました。
奴隷たちは、カラクム砂漠を越えてやって来たトルコ人部族や、草原のカザフ族に買われていました。
1873年にロシアの支配下に入るまで、奴隷の売買は続いていました。
1806年にエルトゥザールハーンにより、煉瓦によって修復され、またダルヴァザの西側はオロクリハーン・メドレセが建設された当時、外観が高く修復されました。
そこには、ドーム型の天井やアーチもなく、ダルヴァザの上部アーチには ” ヒヴァの街 ” と記載された石板があり、その文字に隠された暦から1806~1807年に修復されたことが明らかとされています。
1911年にフドーイ・ベルガン・デボノーフが撮影した写真ではダルヴァザの南側は全面的に倒壊してしまっていたことがわかります。
その後、1930年、1982年、1997年にも修復されています。
★トシュ・ダルヴァザ(南門) Тош Дарвоза
カラクム砂漠へ行く人はこの門から出て行き、砂漠から来る人はこの門を目指してやってきました。ウズベク語のトシュとは、 「石」 を意味します。
★ボクチャ・ダルヴァザ(北門)Боғча Дарвоза
当時からウルゲンチへ行く人々はこの門から出て行っていたため、ウルゲンチ・ダルヴァザとも呼ばれていました。
現在もボグチャ・ダルヴァザの外はウルゲンチ行きのタクシー乗り場として使われています。
まとめ
ヒヴァ「イチャン・カラ」の主要な4つのダルヴァザ(門)についてご紹介しました。
かつてシルクロードを通って、さまざまな国から訪れた旅人がくぐった門と考えると感慨深いものがありますね。
1つ1つの門のデザインは違い、模様やアラビア語での歴史についての記載は手作業で彫られたものです。
当時から現代へと受け継がれている職人さんの器用な細かい技術には関心してしまいます。
ぜひ、ヒヴァ「イチャン・カラ」に訪れた際はダルヴァザ(門)もゆっくり見てみてください。